今回ご紹介するのは、かがやきの元気印、「ウラちゃん」こと浦田敏子さんです。
かがやきの厨房での調理スタッフとして勤務すること6年。本人曰く、これまでに波瀾万丈(⁉︎)な人生を歩んできました。
パワフルでみんなを笑顔にしてくれる、浦田さんの明るい人柄に迫ります。
ジャズ喫茶に通った青春時代
最初に紹介したいのは、浦田さんの若かりし青春時代。現在にも通ずる幅広い交友関係は、当時からその片鱗を見せていました。
浦田「ジャズを聴くことが好きで、中央橋にあったジャズ喫茶に高校生の頃から通いよったとですよ。そこの常連の人たちとあっちこっちにジャズを聴きに行ったり、マスターの仕事終わりにドライブしたり、よく遊んでましたね。いらんことばっかりして、青春してました(笑)」
周りは歳上のお兄さんばかりで、みんなから可愛がってもらっていたそうです。浦田さんは歳の離れた妹(アイドル?)のような存在でした。
化粧品店での出会いが、手話を始めるきっかけに
浦田さんのキャリアの大半を占めるのは、化粧品店の販売員。フランクな性格が接客をする上でも効果を発揮し、売上にも大きく貢献する活躍ぶりでした。
そして、どんな人に対しても心のこもった接客がしたいという気持ちで溢れていました。
浦田「私が40代の時、耳の聞こえないお客様がお店に来たんです。その時は筆談をしたんですけど、時間がかかるし、思ったことの半分も伝えきれんかった。『他のお客様と同じように接客やカウンセリングがしたか!』と思って、長与町の広報誌で見かけた手話サークルに通い始めました」
当時、各県に数名ずつしかいない、大手化粧品のエグゼクティブ・カウンセラーでもあった浦田さん。プロフェッショナルとしての意識と、浦田さん自身の人柄が現れた行動でした。
子供の頃からいろんな習い事をしてきたそうですが、大人になって始めた手話が一番長く続いているとのことです。
後日、また耳の聞こえないお客様が来店した際に、「手話を習い始めました」と伝えると、その方は感動して涙を流されたのだとか。浦田さんは、より一層「頑張らなきゃ!」と手話を勉強しました。
多くの人は、ある程度手話で意思疎通ができるぐらいの自信がついてからじゃないと、なかなか踏み切ることができません。しかし、そんなの関係ない!と言わんばかりに、浦田さんは交友関係を広げていきました。
浦田「最初に、『手話は技術ではなくて、伝えたいっていう気持ちが一番大事』なんだと習ったんです。ああ、そうなんだ!って思って。だから、サークルの中でもどんどん話しかけたり、飲み会に誘ったりしていたので、いつの間にかみんな私を『キャプテン』って呼んでいました(笑)」
入門編を習ったばかりでまだ自己紹介と挨拶程度しかできなかった時にも、外で手話を使っている人を見かけたら話しかけに行っていたという浦田さん。凄まじいコミュニケーション能力です…!
手話ができる・できないの問題ではなく、相手に何かを一生懸命伝えようとする気持ちが浦田さんからは溢れ出ているのだと思います。
父を亡くし、すき間を埋めるように1日中働いた日々
浦田さんは、お父さんやお母さんとの仲がとても良かったそうです。
浦田「仲が良いというか、お互いに親離れ・子離れできてないというか(笑)。とにかく過保護やったんです。化粧品の仕事をしていたので、手荒れするわけにもいかないっていうのもあったんですけど。家事をやろうとしても、止められていました(笑)」
特にお父さんとは仲睦まじく、周囲からは「俊子ちゃんはお父さんのおらんごとなったら、その後を追いかけるっちゃなかとね」と言われるほど。
そして、浦田さんが化粧品店で25年勤めた後、近所のスーパーで仕事をしていた時期に、お父さんは亡くなってしまいました。
浦田「『うつ病にならんごとね、気を確かにね』ってみんなから散々心配されて。私も、仏壇の前で沈み込むよりも仕事しよう!と思って、スーパーの出勤後にお昼から働ける仕事を探したんです」
そこで選んだ職場が、かがやきの厨房の仕事でした。朝5〜10時でスーパーの仕事をこなした後、お昼の休憩を挟んで、午後13〜19時でかがやきの厨房へ。日々が空虚にならないように、働く時間を詰め込んだ生活を送りました。
浦田「包丁もまともに握ったことがなかったとですけど、『そんな私にもできますか…?』て聞いたら、笑顔で『大丈夫ですよ』と言ってもらえました。調理と言っても、すでに別の会社で加工されて届いた食材を刻むだけの作業だったので、これなら私にもできるかなって(笑)」
こうして、浦田さんは日々が空虚なものにならないよう、すき間を埋めるようにして仕事をこなしていきました。
がんになっても、笑って生きる
働き詰めだった時期に、お母さんの介護が必要になりました。最初は介護も仕事も元気にこなしていたそうですが、段々と体力的な限界を感じ始めます。それから、スーパーの仕事は辞めることにしました。
浦田「でも、途中から母親は病院に入ることになったので、『親のことも手がかからんようになったし、さあこれから残りの人生をエンジョイせんばね〜』と思っていた矢先。去年の健康診断で、肺がんの見つかって。びっくりして、やばいって思いました」
がんの進行度合いはステージ4で、脳にもリンパ節にも転移している状態でした。「ああ、これはもうダメばい」と思ったそうです。
浦田「今、私と犬とふたり暮らしで。私はもう面白おかしく今まで生きてきたから、『別にもうよかかな〜。治療もするまい、どうせ死ぬやろ』って思ってたんです。だけど、まだ犬がちっちゃくて……。やっぱり、この犬のために長生きせねば!と思い直しました」
そして、病院にいるお母さんを最期まで見送るためにも、抗がん剤治療を始めることに決めました。
抗がん剤の副作用も覚悟し、万全の状態で入院生活に臨んだ浦田さん。ところが……。
浦田「なーんてことはなくて(笑)。入院中は風呂も入れんかなって心配してましたけど、毎日普通に過ごせましたね。がんと言われたときはびっくりしたけど、仕方ないねって受け入れてたんです。だけど、家にも1人だし、考え込んで泣いてしまう日もあるかな……と思っていたら、1回もそんな日は無かったです(笑)」
治療のおかげで、がんはみるみる内に小さくなっていきました。長い間化粧品店に勤めていたこともあって、自らの美容ケアを怠らなかったおかげで、抗がん剤による副作用も最小限に抑えられているそう。
持ち前の明るさで、病気すらも跳ね返してしまったのです。むしろ、「ウラちゃんがこの施設の中で一番元気か。病気のごと思わん」と言われるのだとか……!
元気に笑うこと、家で推しのアイドルのDVDを観ること、休みの日はいろんな人と出かけること。
浦田「いろんな人が心配してくれるけん、暗いところを見せたらいかんっていう気持ちも、どこか気付かないうちにあるとかもしれんけどね」
周りに元気を分け与える浦田さんも、いろんな人との関わり合いの中で生きるエネルギーを受け取っているのかもしれません。
他人を幸せにする力
パワフルな浦田さんのお話を聴くうちに、「これからやってみたいことってありますか?」と質問したくなり、尋ねてみました。
浦田「うーん……、特にありません!今後も人と触れ合って、楽しませながら、明るく生きていければいいのかなって思うだけです。自分のできることってそんくらいです」
その昔、中学生時代からの友人に、浦田さんは「人を幸せにする力があるね」と言われたことがあるのだそうです。当時はその意味が分からなかったそうですが、人を笑わせたり、自分のできることをしたりする姿を見て、そんな言葉を掛けてくれたのではと浦田さんは振り返ります。
「特別なことはできなくても、他人のために何かしたい」。浦田さんのどこまでもひたむきで純粋な気持ちは、今も昔も変わらないものでした。