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〈wagayoのひとびと〉なかやま もとこ

中山さん メイン写真

今回ご紹介するのは、かがやきの施設長を務めながら、理事として高齢者福祉事業(介護部門)を担当する中山資子さんです。長年培ってきた介護福祉の経験とキャリアをもとに、ながよ光彩会をリードする人物の1人です。

中心に立ってみんなをまとめる強さと、利用者さんに寄り添う優しさを兼ね備えた中山さんのバックグラウンドをお聞きしました。

島の暮らしが教えてくれたこと

中山さんの出身は五島列島。4姉妹の長女として生まれ育ち、祖父母や曽祖母、叔父とも同じ屋根の下で暮らす大家族でした。

中山「長女だったこともあって、誰かがリーダーをしなきゃいけない時には、決まって私になることが多かったです。今も昔も、ずーっとそんな感じで生きてきました。グループに仲の悪い人たちがいても、私が呼びかけたらちゃんと来てくれる、みたいな(笑)」

まさに、みんなのお姉さん的存在! 中山さんは、子どもの頃からみんなの中心に立つリーダーを務めてきました。むしろ、そんな振る舞い方が自然と身について、今に活きているのかもしれません。

また、習い事にもたくさん通っていた中山さん。日本舞踊・ピアノ・バスケ・卓球などなど、1週間休みなしの超多忙生活で、文武両道の教養を身につけてきました。

ちなみに中山さんといえば、歌うことが大好きで、素晴らしい歌唱力で職員の皆さんにも有名です。

中山さん 歌う様子

ー歌も小さい頃から好きだったんですか?

中山「父親がバンドを組んで音楽をやっていたんです。その影響で、小さい頃からずっと歌うことが好きですね。親戚からは、よく子どもの頃にみんなの前で歌ってたよねって言われます」

最近では、ながよ 光彩会の職員向けお誕生日会で、3人組ユニットを組んでライブ演奏を披露してくれています。歌の練習時間は、通勤で運転している車の中。練習が足りない時はまっすぐ家に帰らずにドライブしながら歌の練習をすることもあるそうですよ。

そんな賑やかな家庭で育ってきた中山さんは、家族の「看取り」に触れる機会も多くありました。

中山「私の一番最初の看取りは、ひいおばあちゃんでした。中学1年生の時です。田舎なので、ベッドではなく家の布団の上でひいおばあちゃんが寝ていて、近所の人たちが泊まり込みで面倒を見てくれたり、最期は診療所の先生が『ご臨終です』と言ったり。それから、”よーい、スタート!”みたいな感じでお葬式の準備にみんなで取り掛かるんです」

中山さん トーク風景

子どもの頃に、家族などの近しい存在が亡くなる経験はあれど、自宅での看取りを経験することは珍しいかもしれません。五島育ちという土地柄も関係して、家族で、そして地域で身近な人の最期を見守る体験を重ねてきたのでした。

「成長したい」。高齢者介護施設への転職

中山さんは大学卒業後、最初は身体障がい者の福祉施設に就職しました。当時は、高齢者福祉よりも障がい者福祉のほうに関心があったそうです。

中山「今考えると、そこで学んだことや積んだ経験がすごく役に立っていると思いますね。施設の中にはさまざまな障がいを抱えた人が居て、介護や補助の仕方はその人によって異なります。『この人はここを支えたらいいな』という感覚が掴めるなど、自信に繋がりましたね」

中山さん 利用者さんとのふれあい

中山さんのように、身体障がい者の介護施設から高齢者介護施設へと転職する人は珍しくないそうです。中山さんの現場職員としての技術と知見は、ここで裏付けられているようでした。

ーそれから、どうして障がい者の施設を辞めようと思ったんですか?

中山「職場の環境はとても良くて、人間関係にも何も不満はありませんでした。でも、まだ新卒で入社したばかりの私は『自分はずっとここに居てもいいのかな?』と感じて。もっと成長したい、向上心を忘れずに持ち続けたいと思って、転職を決めたんです。若かったから、生意気だったんですかね(笑)」

中山さんは、経験と技術をしっかりと身につけてから、環境を変える決断をしました。それから一度、長崎市内の別の高齢者介護施設への転職をはさみ、新設された「グループホームながよ」へと入社したのでした。

大切な過去が、今も優しさとなって生きる

中学1年生の時にひいおばあちゃんを看取ったことと、もう一つ。中山さんにとって、決して忘れられない大切な過去があります。

それは、当時大学4年生だった2歳下の妹さんが若くして亡くなったこと。

中山さんが障がい者福祉施設で働いている時期でした。

フィッシュボウル・中山さん

中山「半年くらいは母と交代で病院に泊まり込み、妹の看病をしていました。早出出勤の日には病院へ泊まって、その翌日はまた夜勤に出る、みたいな日々の繰り返し。母は毎回、五島からフェリーで長崎市まで来て、港のベンチに一人しばらく座ってから病院へ向かっていたそうです。『病院までの道のりが本当に遠かった』と言っていました」

中山さんのそんな経験が、看取りケアの時期に入ったご家族の気持ちとも重なります。

お母さんは、常に妹さんの側にいて綺麗にしてあげていたそうです。看取りケアになった利用者さんにも同じようなお手入れが欠かせません。

中山「目や手足、口の中や髪の毛。家族がいつ来ても、『綺麗にしてもらっているね』と思ってもらうことは安心に繋がります。職員には、かがやきで最期を迎えた利用者さんが葬儀屋に行った時に、『お身体が綺麗ですね。よくしてもらっていますね』と言われることが最終的な目標だと話しています」

中山さん 笑顔の仕事風景

妹さんの看病は1年半ほど続きました。お母さんはその間、いろんな看護師さんを見てきました。そして、大切な家族を預ける身として「お世話をしてくれる職員さんは、とにかく優しい人であれば、それで良い」という言葉を中山さんに伝えたのでした。

ー中山さんとお話しするうちに、責任感の強さの奥には、やわらかい部分があるなと感じます。

中山「母の言葉を、今でも大切にしています。本当にその通りだなと思っていて、利用者さんに対しても、職員同士でも、優しさがあれば全てうまく回っていく気がするんです。だから、できる・できないの話ではなくて、『優しささえあれば、知識や技術は後から付いてくる』ものだと私は考えています」

中山さんは、介護施設の職員である以前に、実体験として他人に家族を預ける気持ちや想いを知っていました。

そして、妹さんが亡くなってしまった時にも、地元・五島に帰ると船着き場に地域のおじさん達が迎えに来てくれたそうです。中山さんは、五島で生まれ育ってきた時はもちろん、妹さんの時にもたくさんの人から温かい優しさを受け取ったのでした。

中山さん 家族写真

中山さんの優しさの源は、家族や五島の人たちとのそんな体験に根付いた揺るぎないものだったようです。

「この人を最期までお世話したい」という気持ち

現在、特別養護老人ホームかがやきでは、終末期の利用者さんに看取りケアを行なっています。

かがやきの嘱託医を務める「ホーム・ホスピス中尾クリニック」中尾先生や、看護師の山口香里さんをはじめとする職員たちと連携を取りながら、利用者さんやそのご家族と向き合っています。

実は、まだかがやきが出来る前に、グループホームながよで利用者さんの看取りをしようと初めて提案したのが中山さんでした。

中山さん GH時代

中山「100歳を越えたとある利用者さんを私が担当していました。そのおばあちゃんがもうご飯も食べらなくなったりして、いよいよかという時期。今から病院に入ってもらうのも可哀想だし、今まで一生懸命自分たちでお世話してきたから、単純に”このおばあちゃんを最期まで見届けたいって思ったんです」

いわゆる「看取り」をしたいと思ったわけではなく、「とにかく、この人をどこにも行かせたくないんだ!」という純粋な気持ちで、利用者さんをこのまま看取ることができないかとグループホームながよ所長(現在は、wagayo group代表)に相談したことが始まりでした。

グループホームには通常、介護職員しかおらず、医療の体制が整っていません。医師や看護師がいないと、終末期の利用者さんに対する適切なケアができず、看取りをするにも難しい状況にありました。

そこで、緩和ケアを専門にする中尾先生に協力してもらうことになりました。

中山さん GH時代2

ー看取りの提案をした時、同じ職場の皆さんの反応はどうでしたか?

中山「みんなも『そうだよね』って賛同してくれていたと思います。ただ、介護職と医療職では、全然畑が違うんです。だから、『こんなことも知らないの?』って医療職の人に思われるのが怖くて聞けないことがあるんですね。看取りをしたい気持ちはあるけど、技術や知識面で不安は感じていました。でも、中尾先生は『とにかくなんでも聞いて』と言ってくださって、とても丁寧に教えてくださったんです」

グループホームの職員たちは、わからないことがあれば、どんな些細なことでも中尾先生に教えてもらうようにしました。今のように電子カルテも無かったため、毎日手書きのFAXで利用者さんの様子を報告していたそうです。これを機に、グループホームでも幾度かの看取りを迎えることがありました。

中山さん トーク風景

ただ、グループホームには看護師がいないため、吸引や点滴など医療的な処置が難しいという課題は消えません。今までにも、「最期まで看取りたい」と思っていても、諦めざるを得ない人たちがいました。泣く泣く入院してもらったりなど、悔しい思いをしてきたと中山さんは語ります。

そんな時に、特別養護老人ホームの話が出てきました。

中山さんも準備室のメンバーとして加わり、図面を引くところからずっと会議に入りました。「ここにあれがあったほうがいいんじゃないか」、「この施設にはこれが欲しい」などを話し合い、代表たちと一生懸命作ったのが、特別養護老人ホームかがやきなのです。

中山さん 利用者さんとの会話の様子

中山「特養なら、どんな人でも最期まで看取ることができる。それなら、やりましょう、という話になりました。ただ、施設の特性上、『かがやきは看取りをする場所です』と職員に説明はしますが、根本的にはそうではないと思っていて。職員が自ら、『この人のことを最期まで見届けたい』と思わない限りは成り立たないんです」

最近は、職員みんながそんな気持ちになってきたように思えると中山さんは感じています。

今までは施設長としてたくさんのことを管理する立場でしたが、2022年7月から新体制となり、職員から理事が6名選出されることになりました。

それにあたり、理事・山口さんと医療や看護の部分をともに話し合いながら分担していく体制に。依然として職員をリードする立場にあることは変わりませんが、中山さんがより理想とするケアのあり方を体現していく過程を見守りたいと思います。

あの頃の自分に言葉を掛けるとしたら

最後に、中山さんに一つの質問をしてみました。妹さんの出来事があった時期は、その他の身の回りのことでも色々と大変なことが重なり、中山さんにとっても家族にとっても、非常に苦しい時期でした。

ー今、あの頃の自分に言葉を掛けられるとしたら、なんて伝えたいですか?

中山「あの頃は若かったので乗り越えられてたなって思います。でも、妹のことは本当につらくてつらくて。気付いたら泣いてしまうほど引きずっていました。葬儀屋さんの前を通るとダメだったし、元気で笑うこともできるけど、どこかでずっと悲しい部分があって」

中山さん 笑顔

中山「でも、そんな経験が今は、『亡くなった方の遺族ってこんな風に引きずってしまうこともあるよね』とか、『病院通いってきついよね。こんな時に何をしてもらえたら嬉しいかな』って考えられることに繋がっているんです。それってやっぱり経験した人だから分かることだなって。だから、あの頃の自分に言うなら、『それが全部役に立ってるよ』、かな」

一番つらかった時期のことも、全てが今の役に立っていて、全てが生かされていると感じる中山さん。あの時があってこその自分なんだ、と素直な言葉で語ってくれました。

かがやきで最期を迎える利用者さんと、そのご家族の気持ちに寄り添う仕事を全うする中山さんの、かけがえのない人生の1ページを教えてくださいました。

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